梵語が日本に入った経緯①

query_builder 2026/05/07
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日本へ直接入った南海のルート


梵語は直接難解を経ても。インド人又は東南アジア人によって日本に伝えられた。

インドは国力の発展と国内の動乱によって二世紀ごろから五、六世紀を最盛期として、南インドの民族がビルマ・マレー半島等に移住移民し、その文化・政治勢力は印度支那のカンボジア付近(扶南国)・インドネシアのジャワ付近にも達し、ここにシーヴィヂャヤ王国というインド文化を持つ強力盛大な国家を形成していた。当時は南海の航海が発達して、南支那の広東省から南支那海を渡り、インドネシアを経て、インド・アラビアと交通も始まっていた。

義浄がその著南海寄帰内法伝に明らかに記述するように、この南の航路を通って、仏逝国を通り、インドへ入っており、インドの達磨大師は逆に広東に達している。ここには暖流が南から弧を描いて流れ、漂流すれば、印度支那半島を出航した船は、和歌山県紀伊半島に辿り着くのである。

このようにして扶南の音楽家仏哲やインドの婆羅門僧正が紀伊に辿り着き、朝廷の保護を受け、東大寺の大仏開眼供養に雅楽(インド仏教音楽)を奏し、貢献している。梵語学の碩学髙楠順次郎博士によれば、那智の滝の那智は印度人がその滝を見て『ナディー、ナディー』(川だ、川だ)と呼び、それを聞いた住民がその滝を『那智の滝』と名付けたという。

鳥居は梵語の『トーラナ門』、瓦は『カッパラ』から来た、と言われる。

夫々が日本にはないものなので、外国語をそのまま使ったという。当時の航海術を考え、印度支那・インドネシアを中継とする、中国とインド・アラビアとの海上交通を考えれば、きわめてあり得ることである。

現に婆羅門僧正に関する和歌が万葉集に収録されている。

『婆羅門の造れる小田をはむ鴉、まなぶたはれて、幡ほこに居り』

婆羅門・はた・ほこ等、日本にないものは、そのまま外来語―梵語を用いたのである。

海路よりの直通の移入梵語は字数は少なかったろうが、口から口への生々したもので、強力であったと思われる。


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赤観梵楽

住所:奈良県吉野郡大淀町北野106-3

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